身の上ばなし

6年余りのベトナム生活であったことすべて書く

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こんにちは、ネルソン水嶋です。

2011年10月末から2018年1月末までベトナムのホーチミンに住んでいましたが、借りていた家を引き払い日本に戻ってきました。現地ではじめた『べとまる』というブログや、その受賞などをきっかけにライターになり、今は編集者としても活動しています。6月頃から一年ほどタイに住むつもりですが、ベトナムは自分にとって第二の母国だと思っているので、今後もときどき行くだろうし、二年後までに戻るつもり。

ベトナムで最初の住居はシェアハウス(本人は右端)。今はこの建物、水炊き専門店で、周辺は日本食街になりつつある。もちろんこの部屋に4人+1匹が住んでいた訳ではない。

 

期間にして6年と3ヶ月いた訳ですが、いろんなことがありました。楽しいことも悲しいことも山ほどあった。そこで今、僕がベトナムで経験したこと、とくに思い出深かったことのぜんぶをここに書き記します。実はというと、それが『ネルソン水嶋.jp』というブログをつくったきっかけでもある。記事を書く理由はみっつあり、ひとつ、自分の整理のため、ふたつ、今後自分に興味を持ってくれた人に説明するため、みっつ、昔の自分のようにくすぶっている人に発破を掛けるため。最後で「何言ってんだ」と思われたかもしれませんが、読んでもらえればだいたい納得してもらえると思います。

長いです!真面目一貫で退屈かも!なのであらかじめ目次を書いておきます。
もし「気になるなぁ」と思うものがあれば飛んで読んじゃってください。

 

 

それでは、どうぞ。日を跨ぐつもりで読んでもらった方が気は楽です(つづきが気になればだけど)。

 

Twitterでベトナムに呼ばれて行ったら就職した

ベトナム移住の直接的なきっかけは、現地に住む日本人からの「スカウト」だった

もうダメだ!と思った社会人6年目の春、僕は次の職場も決めないまま、新卒から勤めていたIT企業を逃げるようにして退職。正確には転職活動はしていた、というよりもどうしても入りたい会社があって三年に渡って転職の準備を進めてきたが、最終面接で落ちたことでパキッと心が折れてしまったことが背景にある。その存在を勝手な心の拠りどころとしていた僕は、目標とともに働くどころか生活する気力さえも失ったのだった。

しかし、無職になってしまえば、暇は暇で苦しいというわがままボディ(用法は違う)。「平日にしか出来ない」というしょうもない理由で、なんとなく皇居や国会議事堂の見学などをして過ごしていたずらに時間をつぶす。だけどそれすらも飽きてきて、ふっと思い浮かんだ言葉が「海外旅行」。当時27歳、実は一度も海外に出たことがなく、それを誰に言われる訳もなくコンプレックスに感じていた僕は、時間と多少の貯金がある今しかないと一念発起。この時点では、ただの旅行先としてすら、ベトナムの「ベ」の字も頭の中には浮かんでいなかった。

中国・大連で、シュールだ!と思い撮った写真。ライターであろうがなかろうが、見ているところは昔から変わっていない。(2011/6頃)

 

転職先も決めないまま海外旅行!

はたから見れば能天気だが、本人は全然楽観はしていない。自己責任だが、海外旅行から帰ってきたあとはマジでどうしよ?という不安は人並みにあった。そこで以前から使っていたとある風変わりなウェブサービスを利用、それは『元気玉』というもので、寄せられたお題に11人のアイデアマンが解決策をひとつ100円で売ってくれる。そこに「転職につながる海外旅行」というお題を投げた。有名な会社なのでご存知の人も多いかもしれない、この運営元の『面白法人カヤック』こそが、前述の入りたかったが落ちてしまったという会社なのだった。アイデアに困っていたことは事実だが、ほとんど未練がましく接点を持とうとしていただけだ。

そんな片恋慕をバッサリ切るかのごとく、回答のいくつかはもはや説教に近かった。「海外旅行は娯楽なのでそれが転職につながることはないんじゃないでしょうか」、ごもっともかもしれないが、説教を100円で買うという気分は新鮮であり複雑だった。ほかにいくつか「それなら海外で就職しちゃえばいい」というものもあったけど、当時は「無茶苦茶言うなぁ」と苦笑いして終わり。このときはまさかその半年後に、本当に海外で働くことになるとは露ほども思わなかったが、ふしぎなものでそのやりとりこそがきっかけを呼び込むことに。

元気玉は、オプション料金を払わなければお題と回答がウェブで制限なく公開される。それを知っていた僕は、どこの誰が興味を持つか分からないからと思って、手紙を入れた瓶を海に流すつもりで、投稿内容に自分のTwitterのアカウント名を載せておいたのだ。目論見通りそこにツイートは飛んできてくれたのだけど、その主はベトナムに住む日本人。海に流すと書いたが、まさか本当に海の向こう側から連絡があるとは。

その内容は、「元気玉見ました、旅行をされるならベトナムに遊びに来てみませんか?」というもの。面識もない自分にこんなことを言ってくるということと、ウェブ制作会社に勤めているらしいということから、薄々感じていたが、会って話せばご明察。最初からスカウトのつもりだった、とのこと。あとから分かったが、エンジニアは外に出たがらない人が多いのか、当時の日系IT企業の多くが技術系人材を探していたらしい。現地のお店で麺料理を食べながら「ホーチミンで働いてみる気はないですか?」と聞かれた僕は、二つ返事で快諾。日本での研修を経て、その4ヶ月後には旅行者ではなく在住者としてベトナムの土を踏んでいた。

「ホーチミンで働いてみる気はないですか?」と聞かれたお店。

 

ベトナムで就職したら4ヶ月で無職になった

旅行直前に「海外で就職しちゃえば」と言われて「無茶苦茶言う」と思った自分が、なぜ二つ返事で快諾したのか。理由は大きくふたつある。ひとつは、中国の大連に移住した友人の存在だ。Twitterで知り合った彼は、就活に苦労していたかと思えば、いつの間にか地元を飛び出し大連に就職。お笑いという内面性のところで気が合った人間なだけに、「新卒で海外に就職する」という行動は衝撃的で、「もうそんな時代なんだ…」と自分の海外観を大きく変えた。ベトナムに入る一週間ほど前に彼と現地で会って話したことで、淡いながらも「住んでみたいな」と思っていたのだろう。ただ、当時の大連は日系企業進出バブルみたいなところがあって、彼のような話が決して全世界的ではないと後に知ることになるのだけど。いずれにしろ、今になって思えば喜ばしい勘違いだった。

ふたつめの理由は、僕が就職したら任されるという業務が「ローカル市場向けの新規事業」だったから。エンジニアという仕事から逃げ出した僕が再びIT企業への転職を決意した背景もそこにあるのだが、それは根の深い話になるのでまたあとでゆっくり書こう。そうして、2011年10月末から僕のベトナム生活がはじまった。今でこそたくさんの日系企業や飲食チェーンが集うホーチミンだが、当時はイオンもファミリーマートも丸亀製麺も、マクドナルドもスターバックスもない。でも、そんなことはどうでもよく(そもそも最初からないものに期待はしていないし)、朝と夜に道路を埋め尽くすバイクの海白米におかずをぶっかけて食べる大衆食堂の美味さ停電になるとヌンチャクを取り出し中学生のように遊ぶスタッフたち、目に映るもの手に触れるものすべてがめちゃくちゃで新鮮で楽しかった。が、それも最初の一ヶ月のうちのこと。

移住間もなく、ホビロン(孵化直前のアヒルの卵)の実食に挑戦。(2011/12頃)

 

その会社はベトナム人スタッフが15人ほど、日本人スタッフが二人の会社。つまり自分は三人目ということだったが、一ヶ月後には再び二人に戻った。僕に声を掛けた方ではなく、古参の日本人社員がスイッチするように日本へ出向したのだ。当然、彼の仕事は自分にスライドする。日が経ち、訝しがり、業を煮やし、「新規事業はいつ出来ますか」と訴えると、「日常業務をこなせないと新規事業などやらせない」という返ってきた。やらせない以前にやれないし、最初からそのつもりもなかったろう。で、海を越えてまで不本意に働くつもりはなかったので、すぐ辞めた。最後の方の人間関係は控えめに言っても最悪だったが、ベトナムに呼んでくれたことは感謝している。

それほどやりたかった新規事業。といっても「何をするかも決まってなかった」と聞けば、なんだそれ?と思われるかもしれない。その内容は「住んでから考えて」と言われていたくらいで、今思えばその時点で実現も怪しかった。そこに考えが至らない、あるいは目をつぶっていたほどに僕がこだわった理由は単純明快、新規事業に「クリエイティブ」を期待したからだ。「クリエイティブ」、「クリエイター」、これは僕には大変根の深い話になる。

ここから、時間は20年弱ほどさかのぼる。

 

「クリエイティブ」をこじらせるまでの10年間

小学生の頃の僕は、友だちも少なかったので家でひとりゲームに没頭することが多く、学校の教室ですら机の上での手遊びで自作のゲームを妄想する毎日を送っていた。はたから見れば根暗で気持ち悪いやつ。けっこういじめられたけど、それは今となってはどうでもいい。間もなく先輩からからかわれて手遊びはやらなくなったが、そんな調子で、当時の頭の中はゲームのちゲームときどき塾。そこで僕が将来の夢を意識したとき、YouTubeに没頭する子どもがYouTuberになりたい的に、「ゲームをつくる人になりたい」と思ったことは自然のなりゆきだった。

ロールプレイングゲームが好きだった僕は、とくに話を考えたい。設定やキャラクターをノートに書きなぐって妄想する、同世代なら抱きがちな夢。その職業がゲームプランナーという名前だということは分かったが、当時の僕はあまりに主体性がなく、まずそもそも夢は叶えられるものだという発想がなかった。あくまで消極的に、ゲームプランナーになれたらなりたい。「行けたら行く」と言う人がほぼ来ないことに通じるいい加減さ。高校で専攻を選ぶときには「ゲームっぽいから」という理由から理系を選んだけども、そもそもゲームプランナーは文系に近いし、今思えばそれ以上に、「理系は就職に有利らしい」という周りに対する忖度と同調だったと思う。担任はきちんと「ゲームプランナーは文系」だとつっこんでくれたのだが、掛ける迷惑をさらに忖度、いやきっと単に面倒くさがって、一度取った選択を覆すほどの気概もなかった。夢とは言えなかったのかもしれないが、そのすぐあと証明されることになる。

そして、情報技術系の大学へ。この頃になるとゲームからも遠ざかり、薄情なものでゲームプランナーに対して唯一あった憧れすらもなくなりかけていた。そこに、入学ガイダンスにおいて学長が口にした言葉がダメ押し。「アニメやゲームをつくりたくてこの大学に入る人も多いみたいだけど、ここにそういう道はない。みなさんはエンジニアを目指しなさい」ー。その言葉はこわい春一番、夢の灯火は吹き消され、眼の前は真っ暗に。でも、当時の僕は諦め忘れる理由がほしかったのかもしれない。大変な失礼な話だが、その点で学長はいい権威だった。

「クリエイター」という言葉を耳にしたのは、そのすぐあとのことだった。

自分から相談したのか悩む姿を気にかけてくれたのか、兄が『電通クリエーティブ塾』という学校を教えてくれた。当時広告業界の王様だった電通(今でもそうか)、そこで活躍するおもに新進気鋭だったり話題の広告クリエイターたちが、大学生や大学院生を対象に、クリエイティブ論を伝えたり課題を出して評価する、という内容の三ヶ月間のワークショップ。兄の友人がそこに通っており、課題で自作ラジオCMを聴かせ合ったという話が、素直に、とても楽しそうでおもしろそうだと思った。

ゲームに興味を失いかけていた高校三年の頃、実はたまたまテレビ番組でCMプランナーという職業を知って、「この仕事おもしろそうだな(でも理系だしなれる訳ないな)」と勝手に憧れて勝手に諦めたことがあったのだ。その一瞬の憧れがぶり返し、「もし今からでもなれるもんならなりたい」と思った。しかも、塾の成績優秀者はそのまま電通の制作局配属を前提に内定が出る…なんて噂もあるらしい(まぁ、ほぼ本当だけど)。新たな夢とその道程をセットで得た僕は、そこではじめて本気で夢を目指すことにした。今になって思うことは、僕にとっての夢の本質は結局、ゲームだろうが、広告だろうが、人を楽しませられるコンテンツをつくることだったのだろう

しかし、電通クリエーティブ塾の対象者は大学三年生か大学院一年生に限られ、そのうえ入塾するには毎年10倍近いという倍率の試験をパスする必要がある。企画の「き」の字も、アイデアの「ア」の字も知らなかった僕は、二年間の猶予のうちの準備を決心、ネットで調べて知った広告学校に16万円というまとまった金を払って通うことにした。それは、宣伝会議という広告業界誌が主催するコピーライター養成講座。開校から半世紀以上と歴史は長く、あの糸井重里や阿久悠、中島らもなども輩出した学校だった。

そこで、企画を褒められたりダメ出しされる経験や、15年経った今でもたまに飲み交わす友人たちとの出会いを経て、はや二年。電通クリエーティブ塾の試験を受け、合格。やったと、心の底から喜んだ。20人余りの合格者がいたが、理系は自分と大学院生の一人だけで、ゲームプランナーに絡んで理系の選択を少なからず悔やんだことがあった僕は、人生ではじめて努力が報われた気になれた。夢を目指してもいい、誰かにそう言われた気がした。これは余談だが、自分の呼び名が「ネルソン」になったのはこの頃だ(由来は後述する)。

3ヶ月間のプログラム終了と同時に就職活動は本格化。この時点で僕は、これまで見てきた壇上に上がるクリエイターたちの燦然と輝く姿を通して、広告クリエイターになる将来しか見ていなかった。いつかは自分もあの壇上に立つのだろう、となぜか当たり前のように思っていた。が、しかし。クリエイティブは僕などより努力する人間やスマートかつ変態的なアイデアを繰り出す人間がいて、就職活動は僕などより明朗に自分をPRできる人間が山ほどにいた。努力の総量も足らなければ、自分をうまく見せる要領の良さも足らない僕は、弱かった。そして何より、これまで口に出したことすらないのだが…当の電通には、エントリーシートすら出さなかった。そうです、アホ。クリエイターになることと就職活動がどうしてもつながらなかった、といえば多少は格好もつくが、後悔する割に究極のマイペース気質だった。口ばかり、いやもっと悪く思うばかりで、本気になるべきときに本気になれない人間だったのだ

そのままズルズルと就職活動を続ける僕に親は我慢の限界を超え、(情けないことに)受験のための上京費用なども出してもらっていた僕は折れ、大学の就職課に泣きついた。すべては自分の責任、人生で一番みっともない頃だったと思う。不幸中の幸いで(と言うと失礼だけど)、大学の就職支援のケアは手厚く、求人もあったので、業界においては中堅ながらも東証一部上場のIT企業に就職した。それが冒頭で登場した6年目に辞めたという会社だ。

突然だが、『性同一性障害』という言葉はご存知かと思う。僕で言う「クリエイター」と「エンジニア」の関係は、それで言う「男性」と「女性」に似ているのかもしれない。実際に悩んでいる人からするとふざけるなとか、そうでなくともらしく言ってるんじゃないとか、言われるかもしれないけれど、性別ではないもののその、「型のはまらなさ」には通じるものがあると感じている。エンジニアも立派だ、今の社会に必ず求められる仕事だ、そう言い聞かせてなんとかやり甲斐を見出そうと仕事をつづけたが、自分への薄っぺらい嘘はほころびつづけ、カヤック転職を志している間は保ち続けたが、その失敗をきっかけについに破綻した。

今振り返ると、『面白法人カヤック』は僕にとってのアイドル的存在だったのだろう。社員の給料をサイコロで決めたり、旅する支社といって期間限定的に海外拠点をつくったり、とにかくヘンで会社らしかぬスタイルに魅了された。ここなら僕も居場所があるかもしれない。でもそれは、テレビの中のアイドルとロマンスを夢見ることに似ている。転職に失敗したことはさしづめ、握手会でラブレターを渡したら警備員に羽交い締めにされて退場させられたようなもの…だったのかもしれない。そう考える今となっては、入れなくてよかったと思えるのだけど。

ここまで読んで、人は僕のことを他力本願な奴だと思うんじゃないだろうか。僕はすごくそう思う。クリエイターになりたいぞ!クリエイティブなことをやりたいぞ!と言いながら、電通といった広告会社なり、カヤックなり、ベトナムのIT企業なり、あくまでどこかの組織の手によって「クリエイターにしてもらおう」としていたのだ。そのくせ、妙なところで手を出さない。まったくどうしようもない。本当になりたいのなら、泥水をすすって這いつくばっても、みっともなくても手足を必死に動かして、今すぐ自分で創作や活動をはじめればよかった。とくに今はウェブで簡単に勉強も自己表現もできる時代だ、あらゆるハードルが低い。クリエイティブの気配を辿って海まで超えて、ベトナムに行き着いて、ようやく「そんなものはない」んだと気づいたのだ。

そしてはじめたものが、『べとまる』というウェブサイトだった。

べとまるの最初のネタは、「家に畳を搬入する」というベトナムとはまったく関係ないものだった。(2012/5頃)

 

このまま日本に帰ったら、死ぬんじゃないか?

なぜウェブサイトを?と聞かれるといくつか理由はある。「ベトナムを紹介する日本語レポートサイト(ブログ)がなかった」…「ベトナムの発展が日本でも徐々に話題になりつつあった」…しかし、何より最大の理由は、単純に「おもしろいことを書きたい」という欲求からだった

はじめてウェブ上にアップする、べとまるのプロトタイプ。無理やり漢字にしているあたり、ベトナムへの誤解が窺える。結局ボツにしてしまったのでデザイナーの方には申し訳なく思ってます。あと「我々」って、自分以外誰だよ。

 

僕は、高校三年から大学二年までメールマガジンを配信していたことがある。ゲームプランナーや広告クリエイターへの憧れとは関係ないところで、当時のメル友に影響を受けてはじめた。内容は簡単に言えばコント風日記で、多いときは読者が400人ほど。隣で寝ている兄を起こさないように布団にくるまって携帯をカチコチカチコチ、「よし、今回は10個くらいボケてるな」とか、「感想が多いから今回はウケたのかな」とか、極々小規模ながらもあのとき自分は「お笑いをやっていた」と思ってる。たぶん、世の中的には、ハガキ職人みたいな方向性に近い。

ネルソンの由来は、この中で登場するキャラクターだ。屈強な黒人だけど、弱腰の泣き虫で、追い詰められたら七色に光ったり空を飛んだりと、荒唐無稽な設定を詰め込んでいた(文字にすると改めてアホだなぁ)。そのキャラが人気だったので、メールマガジンを終えたあとに形に残そうと思い、ウェブで使うハンドルネームとして名乗ることにしたのだ。クリエーティブ塾に入る直前、『みんなの就職活動日記』という掲示板で合格者が集まるスレッドがあって、そこで初めて『ネルソン』として書き込んだから、実際に会ってもそう呼ばれつづけた。という訳。

話を戻し、メールマガジンの後半では、『侍魂』や『ろじっくぱらだいす』といったテキストサイト(と呼ばれるジャンル)を知って、文章だけで笑いをとれる人たちに憧れ、その世界にのめり込んだ。『ショットバイショット』『STAY GOLD!』『ロックロンロールキャベツ』がとくにお気に入り(読んでた人とは仲良くなれる!)。少しでも環境が違えば、僕もテキストサイトをやっていたのかもしれない。この時代に活躍した人たちが今では、本稿でも後に登場する『デイリーポータルZ』の編集長や、『オモコロ』の初期メンバーとして、現在のウェブコンテンツの系譜をつくるに至っている(今では一応関係者である僕が言うのもなんだけども)。

社会人になってからは、Twitter上で大喜利の出題と回答者へのつっこみをはじめたりして、時代も合っていたのかニュースサイトに取り上げられる程度に注目された。ほかにも、当時住んでいた高円寺のまちおこしの一環で大喜利のイベントを開催したり、回答者としても吉本の舞台に上がらせてもらったり(盛大に滑ったけど)、当時流行った動画配信サービスで大喜利の様子を配信したり、大喜利を中心にさまざまな取り組みに挑戦していた。これを書くまで忘れていたが、テレビ局の関連会社が主催する放送作家の学校にも通っていたんだ(こんなの書いても不毛だが企画はわりと褒められた)。この動きが冒頭に出てきた、「カヤックに入るため三年してきた準備」でもあったのだが、僕の勝手なオモシロ像を追っていたにすぎず、とても計画的とも建設的とも言えなかったと思う。

これがはじめてのネットメディア掲載、それはもう喜んだ喜んだ。(2010/1頃)

キャラクターをつくってマグカップまで販売した。ベトナムで割っちゃったけど。

 

そんな割とお笑い大好き人間だった僕が、ベトナムという、日本人にとってネタだらけの世界を前にして、「笑えるベトナム記事を書いてみたい」という欲求が生まれることは極々自然ななりゆきだったと思う。ちなみに、前述の、大連に就職した友人はもともとその僕がやっていたTwitter大喜利での回答者で(だから笑いのセンスが合った、と書いたワケ)、今はネルソンならぬ「ネリソン」として大喜利のお題を出し続けてくれている。ややこしいので簡単に書くと、僕にはネラソン・ネリソン・ネレソン・ネロソンの五人のニセモノがいた時期があって、ネリソンだけが「本人公認偽物」として今も大喜利の出題をつづけている。もはや本物のキャリアより3倍も長い。

▲僕自身がそうであったように、ネリソンは今も古き良き時代の非公式RTを使っている。

振り返ってみれば、くだんの「新規事業」において、べとまるのようなものをはじめるつもりはもとから考えていなかったにせよ、しがらみがないとこのようなものが出てくるのであれば、いずれにせよ人材としてミスマッチだったのかもしれない。まぁ、そうだったとしても、そもそもやらせるつもりはなかった訳なんだし、きっとそれはお互い様だけど。

ここまで来ると余談だが、「なぜ帰国しなかったのか?」とときどき聞かれることがある。当時は露ほど考えたこともなかったのではじめて聞かれたときは意外に思ったが、日本にいる人からすると当然の疑問らしい。その答えはただ単純に、日本に戻って自分が望むことが出来るとは思わなかったからだ。たかだか趣味で大喜利をしょっちゅうしていた元エンジニアが、どんな業界であれクリエイターと呼ばれるような仕事に就ける望みは乏しい、と思った。その場合、趣味が仕事になるほど盛り上げていくしかないのだけど、それであればなおのこと、ネタの宝庫であるベトナムという地の利を活かそうと考えることは当然だったのだ

日本に戻ることがあるとすれば、それは成功か失敗か。後者であればまた元通りの生活になる、なるというか、元通りの状況には気持ちが耐えられないと思っていたので、自分がどうなるかなんて想像もできない。そうなったら将来に絶望して死んでるんじゃないか?とすら思っていた。僕がベトナムで仕事を辞めたことを聞き、身内などの近しい人から「戻っておいで」と、今になって思えばありがたい言葉を掛けられたけど、それは自分が死なないためにも絶対に食べてはいけない甘い甘い毒饅頭だったのだ。

 

べとまる、ほんと、意外に、好評。

幸いにも、『べとまる』の船出は思いのほか順調だった。うまく出来ているもので、コピーライター養成講座や電通クリエーティブ塾、Twitterでの大喜利、そしてエンジニア、すべての経験がひとつのコンテンツをつくる要素として噛み合って、友人を中心に反響は大きくなっていった。「ブログの撮影」感覚は「メディアの取材」感覚になり、外で握手を求められることも増え、ありがたくもベトナムの有名人とも呼ばれる機会が増えていった(あくまで日本人コミュニティのだけど)。人見知りなので、ほとんど「思ったより真面目なんですね」「思ったより静かなんですね」と言われたけど、それはそれでそんな状況を楽しんだ。

はじめて紹介されたときの記事(リンク)。(2012/8頃)

 

はじまってから三ヶ月ほどでニュースサイトにも紹介され(タイトルは「無収入ブロガーのおもしろ海外生活」!)、さらに三ヶ月後、つまりスタートして半年後にはライブドアブログのコンテストで入選。賞金は「奨学金」と言いながら返金不要、一ヶ月ずつ5万円が半年間に渡って振り込まれるというもので、「自分が書いた記事がお金になるのか!」と喜んだ。それから、「ベトナムでダチョウに乗る」「マクドナルド一号店にドナルドのコスプレをして行く」「スイティエンパークのレポート」などといった企画がウケ、ハノイの日本人向けトークイベントに招待されたり、ホーチミン市在住、ベトナム在住日本人の間で順調に知られていった。

マクドナルド一号店へドナルドのコスプレ(?)をして行く。服はオーダーメイド。(2014/2頃)

 

当初は日本に住む日本人に向けて書いていたが、在住者、なにより日本語の読めるベトナム人にも反応があったことには意外であるとともにうれしかった。おもしろいことをやりたいと思ってはじめたサイトだったが、そんな自分がまさか「日本人の視点が新鮮だ」「ベトナムを紹介してくれてありがとう」などと言って喜んでもらえると思わず(視点は日本人を代表できないと思うけど…)、それをきっかけに段々とベトナムが好きになっていった。また、通訳などの手伝いを通してベトナム人の友人たちもずいぶんと増えた。

トークイベントの様子。もともと人見知り気質のため、かなり緊張した。(2014/2頃)

 

しかし、奨学金は別として、ブログそのものが収入になることはまずなかった。隠すことでもないので公開するが、ベトナムに渡った時点での貯金額は200万円。それを切り崩しつつ、やりたいことを思い切りやる。エンジニアという職歴と、当時オフショアブームでたくさんの日系企業が進出してきたことも手伝って、ありがたくも社員としてのお誘いを何度か受けたが、くだんの理由からそんなつもりはない。やりたいことをやるために、すべてを振り切ってここに来たのだ。

と、いっちょ前にカッコつけてはみたが、「どうせすぐに使えないヤツだとバレるだろう」と思っていたというのが本音のところだ。いずれにせよ、記事を書き続けることで良くも悪くも「それ以外に興味がない人」だと思われるようになったのか、そんなお誘いも段々となくなった。たぶん、在住歴が長くなるにつれて、元エンジニアという経歴が忘れられていったということもあるのだろう。

それから、サイトを更新するほか、自分が呼ばれたハノイのトークイベントに触発されてホーチミンでも同じようなイベントを運営したり、また友人と話が盛り上がった末に街コンを開催したりした。日本でやったイベントらしいイベントは大喜利関係くらいだったが(それも主な進行役は友人で自分は裏方だったのだけど)、ベトナムでのイベントも成功といえるほどには人を集めることはでき、記事以外の活動でも気持ちは充足していった。日本でのお金と心の充足度は、ベトナムにおいて完全に逆転。決して良い状況とも言えないが、それでも楽しかった。

やりたいことをやりきる満足感、取材を通して高まるベトナム愛、反響を受けての自己肯定、あまりにその輝きが強く、目減りする貯金はしばらく見えなかった、見ないようにしていた。それはのちに大きな壁となって立ちはだかるのだが、その前に、ある意味ではもっと巨大な別の壁が激しくぶつかってくることになる。僕は6年3ヶ月のベトナム生活はおおむね楽しかったものだと思っているが、人生で後にも先にもあのときほどはないと思うほど悲しいことが次々起きた。今から書くことは愚痴だと思ってくれていい、だから最初にごめんなさい。

 

日本人コミュニティの「光」と「影」と「人間不信」

まず最初に断っておきたいが、海外の日本人コミュニティはおもしろいものだと思っている。規模にもよるが、それはまるで日本の縮図。ホーチミンには1~2万人の日本人が暮らすと言われているが、立場も、会社員・経営者・その家族とさまざま。業界も、IT・旅行・広告・法律…数えきれないほどさまざま。しかも同じ国を選んだ日本人ということもあって気も合うので、日本よりも確実に異なる属性を持った人たちと触れ合えて刺激を与え合える良さがある。だからこそ、一方で衝突も起こりやすい。あえて日本人を避けてベトナム人や外国人と付き合う人もいるが、多くの日本人は日系企業で働いており、完全回避は望めない。とりわけ顔の広い営業職なら、休日まで客や上司と会いたくないので、日本人街であるレタントン通りには近づかないという人もいる。

そういった距離の近さを背景とした息苦しさによって何が生まれるかというと、ウェブやリアルも関係なしに飛び交う噂や陰口。誰かが別れた・付き合った、誰かが殴った・殴られた、個人間の些細ないさかいが、伝言ゲームによって尾ひれはひれがくっついて広まってしまう。そこで対象となるのは、「目立つヤツ」。名前も顔も出して、ダチョウに乗ったりドナルドになったりしている僕は、噂で暇をつぶしたい人たちの格好の餌食になっていた…らしい。なぜそんな書き方かというと、僕自身は見ざる聞かざるを徹底しても、周りの、赤の他人ではなく友人が、心配しているのかしていないのかは知らないが、「あんなこと言ってたよ」「こんなこと書かれてたよ」と言ってきていたからだ。もちろん悪気がないことは分かっている。しかし、伝え聞く声の向こうには、ネガティブで真っ赤な嘘が平然と広がり、しかもそれを信じている人たちもいたりなんかして、本当にうんざりした。

「貧乏暮らし感」のよく出ている部屋。ここに住んでいた頃が精神的に一番辛かった。(2014/7頃)

 

「水嶋はあのレストランの女性店員を金で買った」だの、「道端で会ったのに無視された」だの買ったのは料理だけだし、無視したと吹聴する前にまず声掛けるのが筋でしょうが。一度会ったきり連絡を取らない人間の顔をひとりひとり覚えていられるか!と、目の前にいないので言うにも言えない。極めつけは、「水嶋と仲良くするな」「水嶋に近づくな」と、「(僕と面識のない人に)そう言われたよ」だの。本人にそれ言うな。そんな愚痴をSNSに書けば、友人限定のはずなのに知らないところで広まって…。人を二分するのってナンセンスなのかもしれない。でもあえて書けば、この頃は、誰が敵で誰が味方が分からなくなった。いわゆる人間不信だ。

「人に言われるから」という理由で、実際に僕から距離を置く人もいた。誰だって自分の居場所は守りたい。分かる。かつていじめを受けたこともあったし、その危機感は分かっているつもりだ。だからこそ僕自身は何も言えなかったし、原因だと名指しされながら「気にするなよ」なんて言えない、黙るしかなかった。で、そうして自分もまたレタントン通りを避けるようになった。目が合ってもこちらが覚えていなければまた言われたり書かれるかもしれないなら、最初から人を見ないようにする。もともと社交的ではない人間がますます伏し目がちになった。

日本人社会は狭いので、もしかしたら知らず知らずのうちに僕も誰かに憎まれることをしているのかもしれない。だったら大変申し訳ないと思う。それでも、自分自身がこれだけ言われつづけてきたこともあって、昔よりずっと気軽には人の、ネガティブな噂はしないようになったつもりだ。あと、不幸中の幸いというか、一応いいこともあって、窮地で本当に応援してくれる人たちが浮き彫りになったと思う自分の背中を押してくれた人たちの恩には報いたいし、一方で後ろ指を差したり蹴飛ばしてきた人たちは見返してやりたいと考え、それらのどちらの感触もシッカリと記憶に留め、今でもモチベーションの糧にさせてもらっている。毒も薬も確かに受け取っているよ。

 

受賞と、クリエイターとしての一歩目。

サイトを通じて酸いも甘いも経験しながらも、相変わらず貯金は減る一方だったが、ここで転機が訪れた。

ライブドアブログ奨学金のコンテスト以来、自分の記事が連続してふたつの大賞を受賞したのだ。それは今でもライターとして参加している『デイリーポータルZ』の新人賞、もうひとつはYahoo!スマホガイドの『スマホの川流れ』というコーナーだった(後に『ネタりか』に統合)。

連続!大賞!血管がはちきれんばかりに興奮し、飛び上がるほど喜んだ!前述の通り、時期が時期なだけにけっこう身銭を切ったが、DPZの授賞式に参加するべく一時帰国。ライブドアブログの賞ではウェブのみでの発表だったので実感はなかったが、目黒の高級式場を貸し切っての式で受ける祝福(DPZ的にも珍しい試みだったらしい)、あれは今でも「いま死んでもいい瞬間」ランキングの暫定一位だ。とか言って、3年半経って「今でも」ってのもどうかと思ったけど。ともかく、それからぽつりぽつりとライターの仕事をはじめることになった。

デイリーポータルZの新人賞、受賞の様子(右端が自分)。(2014/10頃)

 

僕は前述のテキストサイト直撃世代でもあったので、そのレジェンドや系譜の人たちへの敬意の思いは強かった、それだけにそんな人たちに褒めてもらえたことはたちまち自信につながった。でも、そこから先は同じ媒体でハッキリと数字が出る世界、海外(ベトナム)ということが強みになったり弱みになったり、いろいろと苦悩することにはなるのだが…。いずれにせよ、こうして僕は、就職や転職や、社内事業などではない、いろんな人たちに支えられながらも、30歳になってようやく夢が叶った、クリエイターとして一歩目を踏んだと思った

受賞した記事「ベトナムでダチョウに絶対乗る方法」。(2012/11頃)

 

ちなみにそのとき、壇上で「これから海外在住ライターがもっと増えてほしい」とぐだぐだ語って、もともと熱心なDPZ読者ではなかった僕は完全に温度差を履き違えて微妙な空気になってしまった(と思った)ことがある。今思い出しても苦笑いしてしまうほどに恥ずかしい。でも、それから3年半が経って、その願いごとは自らの手でなんとかしようとすることになるんだけど、それはまたのちほど。

余談だが、このブログのトップ画像にも据えている『ドリアンマン』はそれから間もなくあとの話だ。ドリアンを装備したら強そうに見えるかもと思ってやったら、地元の若者向けメディアで取り上げられ、それが日系メディアに取り上げられ、なぜかYahoo!トップまで行ってしまった。まさにメディアのピタゴラスイッチ!この話題のお陰で、地元の大阪では有名なテレビ番組の、『となりの人間国宝さん』というコーナーでも取り上げられ、いい思い出になった(ただし親は複雑に思っていたらしい)。

ドリアンを装備する様子が、

Yahoo!のよく株価チャートが出ているところに!(2015/6頃)

 

しかし、ライターの仕事を得たとはいえ、そのふたつだけでは日本より物価の低いベトナムでも生活できない。移住当初は200万あった貯金額も、受賞から間もなくしていよいよ1万を切り、数千円(!)になっていた。親の言いつけでバカ正直に年金は払っており、人生ではじめて友人から数万円ほど借金したりもして、ヤバイなヤバイな…と思っていたところ、ひょんなことから「就職」することになる。

その社長とはもともと面識があったのだが、僕の状況を聞いたところ、ウェブや制作関連でポストがあったのでどうかと誘ってくれたのだ。引っ越すたびに下がりつづけてきた家賃も移住後4年が経ってはじめて上がる。並行して続けていたライターも次第に案件が増え、またベトナムでひたすら取材を続けて蓄えてきた情報量もあって、テレビ番組向けのリサーチや市場調査、ツアーの企画などと幅が広がっていった。このときから「ライターの本質は書くことよりも知識と洞察力だ」と思うようになり、それは今の動きにもつながっている。

社長は、頭が上がらない、と言うにはちょっと関係性をあらわす言葉として正確じゃない気もする。体育会系なところもあるから僕とタイプは全然違うけど、その人がベトナムに住む人の中で最大の恩があると思ってる。僕自身がどうだとか言いたい訳じゃないんだけど、その人は人を見る目があるから、もしかしたら僕の今後の展開に期待してくれて助けてくれたところもあるのかもしれない。それならそれで、いやそうじゃなかったとしても、これからも時間をかけて恩を返していきたい。その人だけじゃなくっても、ご馳走になったり、取材を手伝ってもらったり、恩を返さなければならない人たちが僕にはたくさんいるのだ。

体育会系を裏付ける、誕生日に巨大カシスオレンジを飲まされている様子。(2016/2頃)

 

ベトナムといい関係でいたいから今は離れる

それからライターの仕事をメインに据えるようになり、ベトナムについて自分なりにたくさんの記事を書いてきた。つもりだ。先日これまで寄稿した記事を数えるとちょうど200、べとまるで書いた記事も合わせると600くらいで、字数にすれば150万ほどになるだろう(ベトナムのことばかりじゃないが、だいたいそう)。きちんと原稿料をいただけるようになって、通訳をしてくれた友人たちに対価も払えるようになった。べとまるをはじめたばかりの頃、楽しいからという理由でずいぶん無償で手伝ってもらってきただけに、こうして感謝の気持ちを形として渡せることは涙が出るほどうれしいことだ(僕の金でなく経費だけど)

その調子の生活がさらに二年つづき、2018年1月末、僕はベトナムを離れることに決めた

最後の住居。8区と中心地から遠いが良いとこだった、お湯がたまに出なかったけど。(2017/5頃)

 

一年前から計画はあって、Facebookに書いたことで一部の友人知人は知っていたが、時期が近くなるにつれて何を思われてか、「ベトナムを捨てた」「ガッカリした」と耳に入りはじめた。正直、またかよ、面倒くさいな、匿名発言いい加減にしろ、と思った。期待の裏返しだと受け取っても、本人の話を聞かずに言われたくはない。ここまで読んでくれた人なら分かってくれるだろう、僕はベトナムに救われて今ここに生きていられる。34年生きてきた中での6年余り、1/5にも満たないが、20年以上に渡って抱いてきた「クリエイターになりたい」という夢を形にしてくれた場所なのだ。では、なぜ離れるか、直接的な理由は次の章に書くが、「これからもベトナムといい関係をつづけるため」だ。このままいるだけなら、なんとか出来るんじゃないかという気もしていたが、それで外から見た魅力を伝えつづけることは簡単じゃない。どんな名画も5cmの距離で見れば何が何だか分からない、コンテンツをつくる人間には死活問題だ。だから、一度距離を置いて、この国を客観的に見ようと思った。

これは本当に狙い通りで、離れることを決めた途端に姿勢は変化し、新しいアイデアがポンポンと湧いた。今、それぞれベトナムにおける、「文化について」「生活について」「子どもについて」、3つのプロジェクトの構想がある。三年後くらいまでにひと通りできるといいなと、今から楽しみに思っている。だから、僕は誰に呼ばれずとも再び戻る。だって戻らないと出来ないし。できれば、一年半から二年後までの間にそうなりたい。

『べとまる』はずいぶんおざなりにしていたけど、記事20~30本分の素材はあるから、これからも変わらずコツコツと更新していくつもり。ネタが尽きたら尽きたで、まだまだやっていないネタが50本以上はあるから、ときどき行っては写真を撮ったりまた相変わらずヘンなことをすると思う。それに、ベトナム語訳もある。これを書き上げたら真っ先に着手しようと思っている。これは本当に待たせてばかりでごめんなさい。

この6年3ヶ月間を振り返ってみると、僕は本当に運がいい人間だなぁと思う。楽しいことも悲しいこともあったけど、ベトナムに渡ったことも、べとまるをはじめたことも、賞を獲ったことも、ライターとして仕事をいただけるようになったことも、おおむね前向きに事は進んできた。でも、もちろん自分の力だけじゃない。ベトナムという国に暮らし、周りの恩人たちに恵まれてきたからにほかならない。

 

カルチャーショックが教えてくれること(今後の動き)

そして話はようやく現在に(長文お読みいただき感謝です…って、ここまで読んでたらすごいよ!)。

冒頭で書きましたが、僕は6月からタイに行きます。たぶん一年。理由は、仕事の変化です。ベトナムでブログをはじめ、ライターになり、そして今は編集者もやる。といっても案件はひとつだけなんだけど、海外ZINE』というウェブメディアの編集長。このメディアでは、今現在はおよそ10カ国の現地に在む(あるいは住んでいた)ライターさんに、その文化や伝統、暮らしぶりについての記事を書いてもらっています。三年半前の受賞のくだりで少し触れましたが、海外のライターが増えてほしいと言ったこと、その土台になるつもりではじめました。本当は今の3年後くらいに世界を行脚してライター仲間を集めようと思っていたけど、たまたま株式会社トラベロコさんから話をいただき、その運営のもとで予定より早く、行脚せずともできるようになった訳です。僕の一方的な計画だけど、そうやってつながったライターさんを訪ねて世界各地を渡り歩くことが今はちょっとした夢です。

こういうのです。プチリニューアルにあたってキャッチフレーズ調整中。

 

なぜその仕事を受けたか、そもそももとから考えていたのですが、「日本に向けてカルチャーショックを伝えたいから」という理由です。日本で何十年どんな経験を重ねた大人でも、異国では子ども同然。ベトナムなら、信号がなく車やバイクが往来していても渡っていいとか、ご飯を食べる前に衛生上の観点から箸やスプーンをティッシュでしごくとか、バイクを駐車したときにチョークで番号を書いてマーキングされるとか、ほかにもいろいろたくさん未知の社会常識があります。楽しく生活するためにはたくさんの経験値を獲得してレベルを上げていくしかないんです。それはまさに、ゲーム少年だった僕が熱中したロールプレイングゲームのよう。取材をふくめたベトナムの生活はすべて、あの頃のゲームを自分の身体でプレイしているような感覚でした。余談ですが、トラベロコはそれで言うなら、強力な仲間に手伝ってもらえるマッチングサービスを提供しています。

海外に出ない人間には関係ないよね、と言われるかもしれません。でも、程度の差が違うだけで、カルチャーショックは国内外どこにでもある。地元とか、世代とか、業界とか、あらゆる壁を越えた瞬間に発生するものだと思います。常識というものは突き詰めれば、文化圏の数、国の数、地域の数、家の数、人の数だけあるもので、それらを知り重ねていくことは選択の自由につながり、実際の行動に変わり、いつか死ぬときに振り返って見る人生がずいぶんと違ってくるんだと僕は確信しています。その点で「海外の文化」は日本にとって大変分かりやすいカルチャーショックであり、だからこそこの驚くべき日常たちを日本にお伝えしたいのです。

また、僕自身もこれからもライター業をつづけていくでしょう。海外にしろ日本にしろ、知らない世界の話を聞いてカルチャーショックを受けられることはライター、言い換えればメディアに関わる人間の役得だと思っています。相変わらずいろんなことをやると外からブレて見られるんですけどね、僕自身はまったくブレていないんですが、そこのところが自然に見えてもらえるくらいまでは頑張らないといけないんだろうなぁとは思っています。

今、僕をはじめとして、海外在住者の中では日本の将来を心配する声が多いです。この記事は日本に戻って書いていますが、国内のテレビを付ければ「将来不安」「日本すごい」と言うばかり。自信がないからこそ身のない自己肯定に走る、その姿にベトナムに渡る前の僕が重なります。そんな番組が視聴率を取れてしまうことは、多くの人がそう思うからと言えるかもしれませんが、逆説的にテレビが来る日も来る日もそれを声高に言い続けるからでもあると思っています。あくまで個人的な意見ですが、テレビは、国民を動かす力を持っているからこそ、日本人が上を向いて前進できるように善処することは極々自然なあり方じゃないでしょうか。テレビが時代を先導してきた背景は、ウェブがあった・なかったという問題以前に、新しいコンテンツを常につくりつづけてきたからなんじゃないでしょうか。もちろん、いいなと思う番組もあるのだけれど、このまま業界全体が膠着するなら、ウェブを含むそれ以外のメディアも大河の一滴を落とし続けなければならないと思うのです。『海外ZINE』の根底には、自らを褒めるばかりで外を見ない(と同時に視聴者へ働きかける)テレビへのアンチテーゼを込めています。

水嶋とメディアのポリシーは分かった、それでタイに行く理由は?という話ですが、それは「タイがベトナムよりも広いから」。人口や国土面積の話ではありません。編集者、という肩書きじゃなくてもいいのですが、これから僕の仕事はひとつでも多くのカルチャーショックをひとりでも多くの人に伝えること。突き詰めれば、プレイヤーである以上に、海外の情報発信者をサポートすることに行き着きます。人が僕にサポートを求めるかどうかはともかく、少なくとも僕自身が、「発信したい人(例:ライター)」と「発信させたい人(例:メディア)」との間に立って、たくさんのコンテンツを生み出していこうと思っています。そうすると、まずは在住日本人がベトナムの3~5倍はいると言われ、日本やそのほかの国との往来の激しいるタイに行かなければはじまらない。その意味では、目的は「人に会うこと」に尽きると言えます。日本人前提なの?と聞こえてきそうですが、今はそうです。

とりあえず一年、でもそこで何があるか分からないので確約はできませんが、なるべくそのあとは僕の原体験が詰まっており、大恩のあるベトナムに拠点を置きたい、置けるくらいの余裕はつくらねば、と思っています。ホーチミンか、ダナンか、ハノイか、はたまた違う街かは分かりませんが。今のところ、ダナンと日本と、そのときどきの第三国であっちこっち行きたいなーと夢想中です。

「カルチャーショック」「プレイヤーである以上に」というとりますが、「人を楽しませられるコンテンツをつくりたい」という思い、これは一向に尽きてはいません。すでに書いたように、僕はなんだかんだでお笑い大好き人間です。ライターになってからいろんなすごい人たちを見てしまったので少し発言をはばかるところもありますが、それでもやっぱりお笑いが大好きです!それは、前述の3つめのやりたいこと、「子どもについてのもの」に注ぎ込む予定。

 

かつて、「やりたいことをやれなかった男」は今、「やりたいことが多すぎてやりきれない男」になりました。

これが、僕がベトナムで経験した6年3ヶ月の出来事でした。ありがとうございました!

 

最後の住居、振り返って一枚。入口はあれですが建物はキレイです。(2018/1)

 

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ネルソンがなかまになってほしそうにこちらをみている!

こんにちは。「ドリアンマン」と呼ばれてる人、ネルソン水嶋です。ふだん、「カルチャーショックはすばらしい」を合言葉に、海外文化を題材としたウェブメディアの運営、記事の執筆や編集などをモリモリと頑張っています。

このブログは、わたくしネルソン水嶋の活動や近況を報告するとともに、素敵な人たちとの出会いがおもな目的です。「こいつとはなんかあるぞ、ピーン!」と来たら迷わず連絡してみてください。してよ。

 

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